都市と学問

現在の学校教育で最終的に目指されるものは、『いい大学』に入学することであり、さらには、『いい会社』に入って家族を養い、心配のない老後を送るという『当たり前』の人生のスタート地点に立つことであるように思える。

そして、『いい大学』とは偏差値の高い大学のことである。
この偏差値の高い大学がどこにあるのかと地図をみれば、東京大学を有する東京を筆頭にして、すべて大都市圏に位置してる。札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、広島、福岡というように、偏差値の高さと都市の経済力やブランド力には、相関があるように思える。

大学で行われている研究内容よりも、都市が持つ魅力にしたがって大学を選択するならば、都市に位置する大学の偏差値は、それにともなって上がっていく。そして、偏差値が高いために『いい大学』となる。

学問と都市とは、本来は無関係であるはずなのだが、そういう関係が作られれば、それは固定化された観念となって、都市の大学に行かなければ『高級』な学問を修めることができないというような倒錯した考え方もまた生まれてくるだろう。もっとも、その『高級』な学問すらも、あとに続く就職活動を有利に進めるための道具でしかない場合も多いのだが。

『いい会社』に入って、『いい人生』を送るためには、『いい大学』に入らなければならないとなると、必然的に、地方出身者は、都市部の大学を目指すことになる。目指すだけならかまわないのかもしれないが、地方出身者の動機は、地方での学問の否定であり、より『高級』で『普遍的』な学問を有する都市の肯定であるから、自らの主体性によって、その出自を否定しなければならないという課題を強制されてしまう。

ぼくは大学では農学を勉強していたが、農学の中にも『高級』な農学と『低級』な農学が存在していたように思う。
『低級』な農学は、たとえば、日本のどこそこの県にある山間の地域で行われている作物の生産・流通・消費に関する事例研究といったような、特殊な地域の、しかも家族経営でなければ成り立たないくらい小規模でローカルな学問であり、『高級』な農学とは、アメリカのような大規模農地で大型の農業機械・設備・農薬を惜しみなく使い、信じられないほどの富を生み出す農業、そして儲かるがゆえに、手本にすべき『普遍性』を持ったグローバルな学問のことである。

農業で利益を上げるなら、土壌条件が均一な農地に、性質が均一な作物と、それらをまとめて一度に処理できる機械が必須であり、これらさえあれば、地球上のどこにいても『普遍的』に通用する。そういった農業が『高級』な農業であり、そのために捧げられるものこそが『高級』な農学だった。

今の教育では、ローカルな地域性を消しさり、グローバルで『普遍的』な領域にあるものこそがもっとも『高級』であるというメッセージを無意識に発信し続けている。
そうして、地方出身者が、その地域性を消し去っていくしかない社会が生まれ、ローカルなものとの対話は否定されていくのである。

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