知恵と現代知性

現代社会は、『自然』を不愉快なものして、積極的に克服しようとしてきた。
今のように暑い時期には、部屋を締め切ってエアコンをつけ、冷蔵庫で冷やしたお茶を飲む。そうやって、快適に過ごすことができるようになった。

そこには、かつてあったような、打ち水や、風通しの良い家や風鈴、川で冷やした野菜や果物といった夏の景観・文化といったものは、ほとんど存在していない。

不愉快な自然を克服し、生活を『便利』にするための家電に囲まれて、豊かな生活を送る反面、等身大の知恵をどこかに忘れてきたようだ。
たとえば、ひょうたんは古くから水筒として使われてきたが、これはひょうたんの表面から水分が蒸発することで気化熱が奪われるため、中の飲み物が外気温よりも冷えるかららしい。
街中に設置された自動販売機で冷たい飲み物がいくらでも手に入る現代では、そんな知識は全く必要がなくなってしまった。

自然を克服するための数々の機械を普及する国や企業、人々が、資本主義市場の拡大や利益の確保のためだけではなく、『便利さ』や『豊かさ』の実現に情熱を燃やしていたとしても、その情熱の向こう側でひっそりと消えるしかなかった知恵や文化に思いを致せば、素直にそのことを喜ぶことはできない。

科学的な理論に裏打ちされた機械による便利さは、人間の知性の賜物ではあるが、それらを手に入れた結果、それらなしでは生活することが困難になるほど、ぼくら自身が自然の中で生きるための知恵は後退してしまった。
そういう意味で、ある種の知性というのは、どこかで人間の退廃につながっているのかもしれない。

そういった自然を克服するための知性を、『現代知性』と呼ぶことにしよう。

現代知性は、人間の理性が生み出した人工的な秩序のもとに、人間や自然を含めたすべての他者を従わせようとするような知性だ。

たとえば、漁業で言えば、外洋を何ヶ月も航海できるような巨大な漁船で魚群探知機を使って魚を探し、何キロメートルもある曳き網で生態系を根こそぎ浚っていくような漁業が、自然の持つ不安定さを排除したパワフルな現代知性の例だろう。
魚を能動的に追い、船上の冷凍庫で大量に保存し、漁場が枯れれば次の場所に移って同じことを繰り返す。それは網元に莫大な利益をもたらす漁業であり、現代知性の勝利として賞賛されるかもしれない。

一方、知恵とは、自然従属的なものであり、それに従う漁業とは、自然への深い洞察から成り立っているように思える。

日米貿易摩擦の交渉材料のために、現在は禁止されてしまったが、北太平洋でのアカイカの漁などは、とても興味深かった。
アカイカは産卵のため、北太平洋を南北に縦断するが、そのアカイカの回遊路を横断するように東西に流し網を入れれば、イカの方から網に掛かりにくる。しかも、編み目の大きさを調整することで、特定の大きさのイカだけを選択的に捕ることができた。網に掛からなかった小さなイカは、やがて大きくなり、再生産されるようになる。

そこには、決して中心に来ることはないローカルな海と、そこに住む漁民との真摯な対話が成り立っていたように思う。

しかし、現代知性の世界では、ローカルなものとの対話なき世界が金銭的な利益に主導されながら、自動的に展開していくのを見るだけである。

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