都市と里山

まんのう町に住み始めてから、いろんな方と話をしたり、暮らしぶりをうかがったりする機会をもち、改めて里山の持つ魅力を知ることになった。

都市になりきれない遅れた地域、あるいは土地に縛られて生きる地域を里山と呼ぶのではなく、両者は全く異なる世界であると捉えた方がしっくりくる。

祖父の家に書いたように、里山では働く場と生活する場が、一体となって存在している。
それは海に接していない、まんのう町にも同じ事が言え、畑や水田の中に農家が存在し、米や野菜といった労働の成果が、そのまま生活に必要な物となる。
山では山菜の他に、木材が手に入るので、簡単な家のリフォームを自分でこなす人もいるし、イグサを育てて、草履を作る人もいる。

里山に住む人には、その土地と自然をうまく利用しながら働くことで、自らの生活を形作り、また、そうであるからこそ、人間の住む世界としての美しい景観を作っているという強い自負がある。

瀬戸内海にある豊島の棚田
瀬戸内海にある豊島の棚田

それはヒマワリの栽培にも当てはまり、手間を掛ければ掛けるほど、その仕事の成果が、美しい風景と、豊かな実りのような確かな手応えを伴って返ってくる。もちろん伊達や酔狂でヒマワリを作っているのではなく、油を取るために作っているので、最終的にその成果物は、売り上げという数字で評価されることになるのだが、その過程においては決して金銭的な『量』だけでは評価することができないものが存在している。

里山での生活にそういった魅力がある一方、都市生活の最大の魅力は、人間関係や土地に縛られることなく、『自由』に生活できるということだろう。
仕事も住む家も、持ち物も、全て自分の意思で『自由』に選ぶことができる。
しかし、スケジュールをこなすだけの作業となってしまい、情熱を見いだせない労働ばかりが並ぶ選択肢から仕事を探し、住む家もその職場からの通勤圏内から選ばなければならない。
また、所有の自由は、給料が許す範囲内の既製品の中から選択する自由でしかない。

都市では多くの人が、何らかの企業や自治体に属し、その組織に用意された仕事をこなすことで、給料を稼いでいる。そこで用意されている仕事が、社会に役立っていると感じられる人は幸せだろう。
世の中には自分が作っている部品や組み立てた製品が何に使われるのか全く知らされないまま働いたり、その組織内でだけ通用する特殊な書類を作ったりと、生産システムの一部に組み込まれた仕事(それは自負心なき仕事かもしれない)を、生活するために仕方なく続ける人もいる。どんなに不満を抱いていても、それに耐え続けるか、辞める自由しかない。

衣食住について、自分の生活に必要になる物のうちの、何一つとして自分で作り出すことはない仕事に就かなければならず、そして、その給料だけで、生活に必要なすべてを購い、消費しながら暮らしていく。
消費者は、消費の選択肢を『自由』と捉え、より大きな自由と優越感を求めて、より多くの所得を望むようになる。所得が増えれば、より多くの選択肢ができ、そしてそれこそが豊かな生活であり、人間の『価値』であると捉え始めたとき、金銭の『量』に還元できない『質』は忘れ去られ、その『質』を屋台骨にして支えられた里山も同時に骨抜きにされてきたのだろう。

(一番上の写真は豊島のヒマワリ)

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