キリスト教と自然科学

宗教と科学は、ダーウィンの進化論の対立に見られるように、今では相入れない存在同士のように考える場合もあるが、ニュートンやデカルトなど自然科学を生み出したルネサンス期の先人たちが、例外なくキリスト教徒であったことを考えると、両者の根本には、きわめて似通った基層精神が存在していると考えられる。

自然科学とは、自然界には因果関係が存在すると仮定し、原因から結果へと至る固有の道筋を説明する体系、つまり『普遍的』な法則を発見する体系を意味する。

そして、キリスト教的世界観は、宇宙を創造した『神』が存在し、地球や人間、ひいては空間や時間といった概念さえも、『神』よって創造されたと説明する。
そう説明されて「なるほど、それももっともな話だ」と、はじめから納得できることは、まずないだろう。
なので、キリスト教社会は、どのようにして『神』が、空間や時間、そしてそこに含まれる物質や人間を存在させているのかという難題を説明するために、頭を悩ませてきた。つまり、唯一の実体である『神』という原因から、どのようにして世界が創造されたのかという結果を、論理的に説明しようとしてきたのである。

たとえば、微分積分の発見者であり、インテグラル記号の発明者で有名なライプニッツは、世界は単一かつ個別の『モナド(単子)』と呼ばれる実体から構成されると考えた。世界にあるすべての物質は、モナドで構成されており、モナドの一つ一つに世界で起こりうるあらゆる事象が内包され、神がモナド同士をシンクロさせることで、ありとあらゆる事象が生成されると考えた。

ここでモナドのような『実体』とは、ある対象物が、変化し続けたとしても、それでもなお残り続ける固有の物のことであり、物事の『本質』のことである。

したがって、キリスト教は、対象には『本質』が存在し、対象の表象が変わり続けたとしても、依然として存在する固有の実体=『神』と、それを認識する『我』の存在を、証明不要かつ証明不可能な前提条件としている。

そして、自然科学が、対象物には『本質』が存在し、対象物がどんなに変化しても、そこには依然として固有の自然法則が存在し、因果関係を説明できると信じるかぎりにおいて、自然科学とキリスト教とが、同一の基層精神を共有していることは間違いない。

そうすると、自然科学のような『普遍的』な物すらも、キリスト教的精神を共有した西洋社会というローカルな『普遍』にすぎなかったのではないか。

しかし、その後、自然科学は産業革命をもたらし、キリスト教社会は、それを背景として、辺境の野蛮人を救済するために、植民地を拡大していった。それは、ローカルな地域を、科学とキリスト教世界が作り出す新たな世界秩序の下に組み込むことと同義だった。そして、それが、とてつもないほどの成功を収めたがために、自然科学とキリスト教という西洋社会のローカルな精神は、成功に曇らされた眼によって、その限界を見誤ることで『普遍的』な領域に上ることになったのではないだろうか。

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