圧迫する理性

キリスト教的人間観では、身体を含めた他の何よりも人間の精神や理性が優先される。

パスカルは、『人間は考える葦である』と表現し、デカルトもまた、自我という理性を存在の前提として措くことにした。前回述べたように、人間の理性とは、唯一の実体である『神』を捉えるための高尚な主体である。『神』という単一の存在から、どのようにして複雑な世界が作られたのかを探る試みがキリスト教の最高の理論であった。それは自然科学が発達した現代においても、『神』は『素粒子』に姿を変えただけで、どのようにしてその単一で素な実体から世界が構成されるのかという問い自体は、そのままの様式で残り続けている。

したがって、崇高なる『神』に迫る手段があるとすれば、それは理性による省察だけであり、しかも『神』は無限であり、それを捉える人間の精神も無限でなければならないからこそ、有限な身体よりも、無限の理性が最も優れたものであるという結論が導かれるのは、当然と言えば当然だ。
そして、このキリスト教を母体として出発した自然科学を、権威として取り込むことで権力を増大させた国家や社会は、身体よりも理性や知性をなによりも尊いものとしてシステムを設計していくこととなった。

日本では、理性は学歴社会と結びついて、知的労働は高学歴者が担い、それらは肉体労働が多い一次産業よりも優れた労働であると考えられるようになった。
かつて、農作業を見ていた子どもに、「あなたも勉強しないと、ああなるのよ」と諭した母親の話が、笑い話として流行ったそうだ。
誰が食べ物を作っているのかを考える必要もないほど生活は便利で豊かになっているわけだが、その便利さに理性の頽廃を見つけるのはたやすい。

知的労働が主導して出来上がった都市生活システムは、高度に発達したインフラとソフトに支えられ、信じられないくらいの数の人間を、抱えるようになった。
人・物・情報が集積され、何でも消費できるが、しかし、そこにはどこか圧迫されるような生活が展開しているような気がするのだ。
知的労働者は労働面では、家と会社を往復しながら、パソコンに向かって、それぞれ専用のソフトウェアの扱いに長けていく。
生活面では自然を含めた何もかもが管理され、何をするにも金銭が必要になる。休みに公園に行けば入園料を取られるし、その公園自体が、法律によって設置を義務づけられたものにすぎない。
要領よく消費していくことが、賢さと同一視される社会にあって、管理者が許す範囲内でのみ、労働と消費を続けていかなければならない。

神や宇宙は無限かもしれないし、単一かつ素な実体から、あらゆるものを生み出してきた奥深さを備えているが、人間の理性は所詮は有限でしかなく、理性ががんばればがんばるほど、何かを圧迫していく結果を招くのではないだろうか。

まんのう町の基幹産業は一次産業であるから、知的労働のような都市の価値観から判定すれば、そこで展開される労働や生活は『劣った生活』ということになる。
しかし、そこで営まれる生活は、そういった価値観とはまるで異なる生活であるように見える。
まんのう町は中山間地域であるから、山と平地が混在し、農家の生活も必然的に、広がりを持ったものになる。
だいたいの農家の人が大きな家に住み、山と田畑を持っている。
山に入り、木を伐り、納屋の材料にしたり、薪やシイタケのほだ木にしたり、タケノコをはじめとする山菜をとり、猟銃免許を持っているから罠を仕掛けてイノシシも獲ったり、日本ミツバチを飼ってハチミツを取ったりもする。
平地では、米と野菜をつくるので、自家消費分や知り合いに配るもの以外は、売ってお金に換える。
農業機械の簡単な改造も行うし、自分で出来ることは自分でやるし、他人が出来ることなら自分にもできるというスタンスでいつも新しいことに挑戦している。県民性なのかもしれない。

健全な山や田畑といった自然だけでなく、そこに生活する人たちの労働が互いに関係しあって初めて成り立つ生活が展開しているのである。

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