鳥獣供養

11月14日 曇りのち雨

11月15日から狩猟解禁日ということもあり、まんのう町で鳥獣供養が行われました。
住職が来られ、お経をあげてお焼香をするなど、葬儀の要領で進行しました。

鳥獣供養の意味合いを尋ねたところ、近頃は、イノシシの農作物の獣害がひどく、肉を食べるために獲ることもあるが、多くの場合は数を減らすためだけに殺すので、たたりを警戒して、あらかじめ供養をしておくとのことでした。

町長のあいさつでは、木材価格の低迷が里山の荒廃を招き、イノシシやサルの被害を招き始めたとおっしゃっていました。

戦後、木材供給のために広葉樹林から針葉樹林への転換が行われ、ドングリなどイノシシのエサが減ってしまい、そしてその針葉樹林の管理さえも、労働価格の高騰による木材価値の低迷により荒れ始めているそうです。
木材だけでなく、燃料としての薪炭の需要がなく、専業の仕事としては成立しないため、山を手入れする人がおらず、荒れるに任せるしかない現状です。
その結果、山裾の田畑には、イノシシが出没するようになり、農作物を食い荒らすなどの被害を招くとのことです。
こういった話は、おそらく日本の社会構造に起因するものなので、全国のどこも同じような状況だと考えられます。

以前は、山は、家や納屋を立てるための木材供給の面だけでなく、薪や炭といった燃料供給の場であり、山菜やキノコ、野生動物など食料供給の場であり、水を供給する場であり、田畑に入れる肥料としての落ち葉を供給する場でした。旧石器時代から縄文時代の人たちが平地に住まず山に住んだことを考えれば、山には人間が生物として生きるために必要なものが一通りそろっているのだと思います。
そして、里に住む人たちは、山から生活に必要なものを得て、コメや野菜を作り、牛や馬を飼ったり、草履を作ったり、その他いろいろなものを得ていました。
里山があって初めて生活が成り立つことがわかりやすい世界だったので、この生活を永続させるために心を砕き、山の手入れを欠かさなかったのでしょう。
現在では“百姓”というと、零細コメ農家の蔑称のような響きもありますが、もともと“百”は多数を意味し、“姓”は仕事の意味であるので、“百姓”とは多くの仕事をこなす人を意味していました。
夏に自分で食べる食料を栽培するだけなく、冬には山に入り生活に必要なものを得るといったように、山や田畑を余すところなく利用するために、いくつもの仕事をその季節に応じてこなしていったわけです。
そして、それらは永続的に行われなければならなかったから、自然の再生力を超えるような収奪はなかったはずです。

人間が自然の中で永続的に生活できるような経済から、貨幣が経済の中心になり、その貨幣の論理が里山の伝統的生活の上におかれ始めたとき、本当の意味で百姓は解体されていったのではないでしょうか。
つまり、生活に必要なすべてのものを里山から得る生活から、貨幣で買う生活になることで、より安定的な収入を得られるように、何もかもを単純に、かつ効率的にしていったように思います。
たとえば、山の機能は、前述したように様々ですが、木材供給だけを優先させて、広葉樹林を伐採しスギやヒノキを植林した結果、生態系が貧弱になった山や、水供給のためダムや堰堤を作った結果、魚がいなくなった川など、その価値を貨幣に換算し価値を決定できるようになったことで、金銭補償さえ行えば何をしてもよい風潮を生み出し、お金に換えられない複合的な価値をそぎ落とす結果となってしまったのではないでしょうか。

そして、山裾においても、かつては山に入っていた人たちが、コメの専業農家となり、コメのみを作り出すのに特化した安定的な農業のために川や水路をすべてコンクリートとし、基盤整備をすることで収入の増大を図るようになりました。

かつて、林業と農業とははっきりと分化されておらず、その境界において密接にかかわりあい、相乗効果を生み出すようになっていたものが、消費が主導する経済によって、林業は林業、農業は農業というふうに専業化され、断片化されることで、一つの仕事により安定した収入を得ることができるようになったけれども、収入が得られない他の仕事は荒廃せざるを得ず、その結果、農作物の獣害などの新たな被害を引き起こしているのだとしたら、それを解決するためには、イノシシに害獣というレッテルを張り、そのプロパガンダをもって数を減らすために殺し続けるしか、方法はないのかもしれません。

だからこそ、里山の人たちは、せめて鳥獣たちを供養するという苦渋の選択をしなければならなかったのだと思います。

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