質から量へ

先日、琴南の県有林へ間伐しに行ったとき、県職員と作業ボランティアの間で、ちょっとした意見の対立があった。

県有林は平成元年にヒノキを5.4haほど植林したヒノキ林だけれども、広葉樹もところどころ混じっていて、その広葉樹がヒノキの生育に影響が出ている箇所をどうするかが問題になった。

県の職員は、ヒノキの木材としての価値を高める観点から広葉樹の間伐を進言し、地元の作業ボランティアは、山の保水力や生態系などの観点から広葉樹を残すべきだと主張した。お互いに観点が違うので、両者が納得できるラインはなく、最終的には、うやむやのまま作業は終わった。

ここで興味深いのは、一方は貨幣に換算できる価値に基づいて間伐を判断し、他方は貨幣には換算できない(あるいは換算しづらい)価値に基づいて判断していたという点だ。前者は、貨幣価値の量を論じ、後者は、換金できない山の質を論じ、そこに存在した対立は、量か質かということになる。

現代知性の企てのうち、もっとも成功したものの一つは、『質』を『量』へと解体していく試みだろう。
科学では、物事は、質を論じる定性的な領域から、量を論じる定量的な領域へと移行するようになり、この形式に合わないものは科学の扱える範囲にはない。
そして、これが社会に適用されるとき、物事は最終的に貨幣の量へと解体されていく。

生命保険は、人生や命を一つ二つと量へ解体することで、統計学を適用して人生を貨幣量へ換算してくれる。
原子力発電所は、その他もろもろの発電方法とどちらが経済的に有利かを貨幣で比較し、その結果、お財布にやさしい発電所として運営されていく。

先に述べた山の例でも、広葉樹が茂る生態系の豊かな森や、魚の住む川よりも、保水力はないが木材としての針葉樹を蓄えた人工林や、水田への水供給のためにコンクリートで固めた川の方が、経済的には優れていることになる。
森や川の生物相が貧弱になったとしても、それらはもともと経済的価値は有しておらず、なくなったところでせいぜいが所有者に対する補償さえ行っていれば、何の問題にもならないのである。

そうやって、質よりも量の議論によって物事が進められていくのは、質は個人個人によって価値が変わるけれども、量は数学の射程に収まり、貨幣との親和性も極めて高いからだろう。

たとえば、抗がん剤の効用(質)と、自動車の効用(質)とを比較して、どちらの質が優れているのかを判断するのは、個人的な理由によって価値基準が異なるため、その判断は常に不安定にならざるを得ない。
がん患者は抗がん剤を評価するだろうし、健康な人は自動車の方を評価するだろう。
そもそも、それら二つを比べること自体がナンセンスかもしれない。

しかし、これがひとたび量へと換算されれば、判断は極めて安定する。
3500万円の抗がん剤と80万円の自動車とを比較した場合、あるいは80万円の抗がん剤と3500万円の自動車とを比較した場合、そのいずれの場合であっても、どちらの物の価値が高いかは、一目瞭然となる。

そうするとそれは、科学の対象となり、科学の権威を付与されることで、合理的で疑いようもなく正しいこととなっていくのである。

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