“本当の豊かさ”とは何か?

地域おこしの文脈で、“本当の豊かさ”とは何か?という問いについて論じる記事をよく見かけるが、豊かさの基準は、時代や地域あるいは人によってまちまちなので、結局のところ、その問いかけは、そういった記事を書いた人が何を豊かと感じているかを表明したにすぎない。

だからといって、そういう問いに意味がないかといえば、そうでもなく、だいたいの傾向はやはり共通するところがあって、自分なりに考えることで得られるものは多い。

というのも、そういった記事において、たとえば、都心の一等地に住み、外車を乗り回して、派手に買い物をするような生活が、本当の豊かさであると論じるような傾向は皆無であるからだ。そういう豊かさは、金銭で購入可能な多額の商品が供給され続ける現在の豊かなインフラを表しただけの“普通の豊かさ”である。

その“普通の豊かさ”は、貨幣という“量”で表現される豊かさでもある。
現代社会では、どの地域に住もうとも貨幣が必要になる。食糧を自給できない都市生活者はもちろんのこと、食糧を自給できる地方生活者であっても、車などは購入しなければならないため、貨幣を必要としない自給自足の生活は、日本国内のどこにおいても成り立ちはしない。

貨幣は腐ることがないから、いくらでも所有することが出来る。1万トンの米を個人で所有し続けることは、狂気の沙汰であるが、それと同等の交換価値を持つ18億円を所有し続けることは、普通行われることである。

そうすると、多くの貨幣を持たなければ生きられない、あるいは、多くの貨幣さえあれば何でも出来るという感覚になるように、言い換えれば、豊かさ=貨幣量となるように、社会全体が誘導されているように思われる。

学歴社会においては、テストの点数という“量”が何よりも重視され、それは学校を卒業してからも、給料の“量”が、その人の仕事における有能さを証明するわけだから、豊かさと貨幣量が正比例するのは、現代社会においては疑うことのない当たり前の感覚である。

それは、受験勉強をがんばればがんばるほど、良い大学へ進学でき、誰もがうらやむような会社に就職すれば、高い給料がもらえるような努力が報われる社会である。

そして、この普通の豊かさは、“量”に主導された豊かさであるから、対象を比較することが極めて容易になる。テストの点だとか、給料の額の大小で一喜一憂し、自分よりも優れた他人に嫉妬し、劣った他人を軽蔑しながら、どんなに孤独で惨めであっても金さえあれば生きられる自由が保障された“豊かさ”でもある。

しかし、最近ではそういった豊かさを疑いはじめ、“本当の豊かさ”とは何かを問う人が増えている。その問い自体の中に、上述したような豊かさは本当の豊かさではない、言ってみれば“偽の豊かさ”であるという前提があるのは見逃せない。

そうすると、“本当の豊かさ”とは、何か?といったことがおぼろげながら見えてくるのではないか。もちろん、それは時代と地域と人によって異なるため、証明することも確立することもできない概念にはなるが、なんとなくそう思えるようなラインは探れるのではないだろうか。

前回の質から量へで述べたように、“量”に対立するのは“質”である。

山の例でいえば、貨幣量を増大させるために、山の持つ木材供給という価値のみを単純に切りとって、木材価値の低い広葉樹を伐採し、価値の高い針葉樹林を創り出した。
その結果として、動物たちの食べるものは減り、保水能力も失ってしまうことになってしまったが、経済的な価値こそが豊かさであるから、それは仕方がないことと誰もが思った。
そして、外国産の安い木材が輸入されるようになると、植林された針葉樹林さえも手入れされることなく放置されていくことになり、荒れるにまかせた方が経済的であるという逆説的な現象すら生み出した。

この傾向を変えて、“質”が主導する豊かさを実現するのは、容易なことではないように思われる。
というのも、再び山の例を持ち出せば、広葉樹林や自然が人間に与える豊かさが、あまりにも現代社会から離れすぎていて、それらを利用する能力がすでに社会全体で失われているからである。

広葉樹林は、山に水を蓄え、落ち葉が森を作り、木の実が動物を育てていく。わき水から川が生まれ、魚が棲み、また、それが動物を育てていく。そして、木それ自体が、薪や炭などの燃料にもなる。
しかし、現代社会においては、それらはどうでも良いものばかりである。
山や森があろうがなかろうが、蛇口を捻れば水は手に入るし、スーパーに行けば肉も魚も便利な切り身の状態で買える。ガスや電気があれば、薪や炭は全く必要がない。
必要ないどころか、薪をただでもらったとしても、扱いに困り迷惑するのが現代社会ではないだろうか。

そういった社会の中では、豊かな暮らしを提唱しただけでは何にもならない気がする。
実際に、広葉樹を植え、水源を作り出し、ジビエを料理し、薪を使うような生活そのものを実践する以外にはないのではないかと思う。

そして、それを一人で行うのではなく、協働していく中で、“量”に主導された“偽の豊かさ”を克服していくしかないのではないか。
野生動物を解体したり、薪を使った火おこしは、面倒くさい仕事以外の何ものでもない。
だからこそ、田舎の人たちも面倒くさいことは一人でやらず、隣近所の人たちを集めて、おしゃべりに興じながら、楽しいイベントに変えていくのが普通である。

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