牛乳と国産牛肉

スーパーにおいてある『国産牛肉』って何の肉か分かる?

先日、畜産業をしていた方から、そう質問されて戸惑った。
国産牛肉は、国産の牛肉に決まっている。
産地表示に詳ければ、日本で育てた期間が一番長い牛肉が、国産牛肉であると答えるかもしれない。

しかし、その方が言うには、スーパーにおいてある『国産牛肉』は、肉牛の牛肉ではなくて、ホルスタイン(乳牛)のオスの肉であるとのこと。和牛であれば、『和牛』と明記されるので、国産牛肉としか表示されていない場合は、十中八九、乳牛の肉らしい。

牛は哺乳類なので、仔牛が生まれれば乳で育てるし、仔牛がいなければ乳はでない。なので、牛乳を生産するためには、仔牛を産ませ続けなければならない。そうして生まれた仔牛の半数はメスなので、いずれ再び乳牛となるが、半数はオスなので、数ヶ月ほど肥育したあと、国産牛肉として出荷されるそうだ。
スーパーにならんだ牛肉のうち、和牛と書かれているものは肉牛だが、特になにも書かれていないものは、乳牛のオス牛ということらしい。

牛乳を出すためには仔牛が必要で、その仔牛のうち半数が牛乳の再生産に回され、半数が食肉に回されるのは、よくよく考えてみれば、その通りだし、これまでに見聞きしたことを繋ぎ合わせれば、容易に導き出されることだけれども、言われるまであまり考えたことはなかった。

今までに何百リットルもの牛乳を飲んできたし、毎日のように牛丼を食べていた時期もあったが、考えれば考えるほど、牛乳と国産牛肉の生産システムは、“いのち”を商品化した効率的な循環サイクルであり、またグロテスクなサイクルであるように思えてくる。
メス牛は産めよ殖やせよで仔牛を作らされ、オス牛は数ヶ月の命でしかない。もっともブタや鶏にも同じようなサイクルがあり、牛だけが特別というわけではないが。

そして、そういった形の生産システムは経済合理性を追求した結果のシステムであり、多くの富を作り出すからこそ、有能なシステムとして社会の中に固定化されていく。
食肉や牛乳は必要なものであるから、そういった生産システムへ収束していくのはいいとしても、怖ろしいのは、そういった“いのち”を商品としたものが、スーパーでは牛肉や牛乳というふうに個別にパッケージされ、まったく無関係な商品として別々の売り場に並べられることの方だろう。
牛乳は、母牛が仔牛を育てるために出したものであるし、国産牛肉は、その仔牛そのものである。
もともとはそういう連続した“いのち”であるが、それらが商品になる過程でバラバラに分解され、グラム数百円、一パック数百円の食品として並ぶだけである。“賢い消費者”は新聞の折り込み広告で特売をしているスーパーを探し、一円でも安く、おいしく安全な牛肉や牛乳を求める。
“いのち”あるものを意識せずにすみ、価格だけを気にして生活できることの方が怖ろしいのではないだろうか。

学校教育では、お金の計算は教えるし、牛肉や牛乳の栄養を数値化して、バランスよく摂りましょうという量を扱うことは教えても、牛肉や牛乳が元々は何であったのかという質を教えることはない。

以前、書いたように中山間地域では人が山林を放置した結果、山が荒れ、イノシシやシカが人里におりてくるようになった。その地域の人たちは、イノシシをただ殺したくて殺すわけではないが、田畑が荒らされる以上、仕方ないから殺す。しかし、それでは申し訳ないから、皮を剥ぎ、肉を取り、食べることで供養する。それでも食べきれないので、たいてい冷凍庫はイノシシの肉でぱんぱんになる。
イノシシを殺す理由も、そこまでイノシシを追い詰めたのも全部人間の身勝手であるが、そこには仕方なさと申し訳なさが、常に同居している。

しかし、スーパーにそういったものは存在しない。
あるのは商品と、それを購入する消費者だけである。

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