循環する自然と、成長する経済

近頃、循環型社会というワードをよく聞くようになった。
明確な定義はないとしても、化石燃料のような再生しないエネルギーや石油原料ではなく、再生可能なバイオマスエネルギーや身近にある自然の材料を使って生活し永続するような社会を指すというなんとなくのイメージは確立されているように思う。

より具体的に言えば、資源の自然再生力を超えない範囲内で自然を利用しながら、自然の中で暮らしていく社会だろう。

自然というものは、循環を基本としている。
地球の公転や自転を基にした季節や昼夜の循環に始まり、たとえば水資源は、山に降った雨が川や地下水脈を通り、海へ流れ、蒸発して雲になり、再び山へ降るサイクルを永続的に繰り返す。
その過程で、生き物は水を利用して生きていく。

山に生える木も、自然のサイクルに従って、生まれては死んでいき、その過程の中で木の実を作り、多くの動物の命を支えている。
そういうサイクルの中では、『個』としての木の意味よりも、自然のサイクルの中で『個』が生成と消滅を繰り返しながら、永続的に存在する総体としての山にある木の方が重要な意味を持つ。

それは水も同様であり、いつどこで降った雨水とか、何々川の水という『個別』の水にはほとんど意味はなく、地球上を循環する水サイクルそのものに意味があるのではないかと思う。

そう考えると、人間を含めた動物も自然の一部であり、その命の在り方は、『個』としての命よりも、サイクルとして永続する命の方に意味があるのではないだろうか。
その生きている過程の中で、他の命を支えていく。

以前、スムシが養蜂家にとっては害虫であるが、自然という大きな枠組みの中では、それなりに重要な役割を果たしていると書いた。スムシはただ本能に従って生きているだけで、ミツバチにとってもそれなりに重要な役割を果たすのである。

人間もただ生活するだけで、他の生き物や自然にとってそれなりに益する存在でありたいものだが、現実としては、大量の除草剤や殺虫剤を使いながら、放射能汚染で山や川、海という循環する環境を、再生不可能になるまで破壊することもしばしばである。

その事実に多くの人がうんざりしているにもかかわらず、なぜサイクルを破壊するような自然破壊が起こり続けるのかを考えれば、結局のところ貨幣量の増大を至上命題とする経済活動と、それの前提となる不可侵の私有財産が、根本的なところで循環する自然と対立するからだろう。

キリスト教においては、個人の精神は何よりも尊いものである。精神は不滅であり、正しき信仰を持つことで、『個』を保持したまま神の国で永遠の命を得るのが、キリスト教である。つまり、キリスト教の命の在り方は、循環しないのである。永遠に『個』として確立されたまま、右肩上がりに一方通行で成長し続けるのである。そういった一方通行の『個』の認識を、制度として引き継いだのが、拡大成長し続ける資本主義経済であり、したがって、資本主義社会は個人の私有財産を不可侵の前提条件として何よりも尊ぶ。
そして、高貴な人間の精神によって、自然は管理され保護されるものである。
そういう一方通行の精神が循環する自然に触れたとき、その循環を断ち切ることで莫大な利益を手にしはじめた。そして、自然が荒廃したところは捨ててしまい、まだ手つかずの自然を求めて同じことを繰り返すだけのことである。

そんな社会にどっぷりつかっていると、私有財産や『個』を何よりも大切なものであるとの認識に染まってしまう。
『個』から作られる社会においては、その構成員が全体としての自然の視点を見失い、価値判断を含めたなにもかもが個人の判断にゆだねられてしまう。そして拡大成長の終わりを意味する『個』の消滅、すなわち個人の死を極度に恐れるようになる。

それはキリスト教的思想であるが、日本では古来、個人の死は恐怖ではなく、虚しいことだった。
なぜなら、すべては自然の中で循環するものであり、『個』に意味はなく、全体としての自然の側に意味があったから。
命は、一時的に『死』ぬ、形を失った虚しいものになるとしても、命のサイクルに従って再び生き返るのだ。
生も死も平等であり、どちらも重要なことだった。

海に流れ着いた水が、その形を失って雲になり、再び水になって山に降るように、命がサイクルとして存在していると考えたのが日本人であり、永遠不滅の個としての命が成長し続けると考えたのがキリスト教であるように思う。

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