敬意なき社会(後半)

某省庁の天下りが問題になっているが、そういう報道をみていると、国家公務員の中には、公のために仕事をしているのではなくて、個人的な理由のために仕事をしている人間がいるんだなと思ってしまう。

いつになっても天下りがなくならないのは、社会の中に、そういう動機を誘導するような要因があるのではないだろうか。

ぼくもかつては国家公務員であり、とある組織に所属し、特殊な書類を審査するという公務に従事していた。

その組織を経営する幹部たちは、審査官一人一人に対して、審査件数にノルマを課している。
個人個人にノルマを課すことで、審査官同士をバラバラにし、助け合うことのできない非人間的な環境を作り出す管理システムであるように思う。

そして、審査対象の書類を出願する企業も、企業の経営陣によって出願数にノルマが課せられ、ノルマの消化のために出願することも少なくない。
出願する側も、それを審査する側も、それぞれの経営管理システムが作り上げたノルマを消化するための労働を行っていたように思う。

労働それ自体に社会的な意味があって、労働者が主体的に労働を行っているのではなく、それぞれが所属する組織の経営のための労働であるとの意識が、常にどこかしらにあった。
経営陣が設定したノルマに主導される労働には、どのような社会的な意義があるのか、見えにくくなってしまう。

ぼくが新卒で入庁したとき、初任者研修の中で、当時の組織のNo.2から衝撃的なアドバイスがあった。
それはだいたい次のようなものだ。
「審査の仕事は社会的にとても意義のあるものです。しかし、繰り返される日々の中で、その意義を見失い、心の病気になる方がいます。なので、みなさんは趣味を持って、オンとオフの切り換えをうまくやってください」というアドバイスだった。

システムを優先することで仕事の意義が見えなくなってしまった労働を放置し、その環境に合わずに心を病んでいく労働者を、まるで無趣味だから鬱になったとでも言わんばかりの典型的な官僚らしい発言だった。それに、仕事は面白くないから趣味に生きがいを見いだせというのも、何もかもが的外れの考え方だ。
所詮、こういう人間が出世するんだなと冷めた心で聞いていたのを覚えている。

社会に必要とされるような意義のある仕事で、しかも容易には遂行し得ない仕事であるからこそ、労働には価値があり、また、それを行う労働者を尊敬できるのではないだろうか。

個人として評価されることでバラバラにされた労働者は、自分の組織内ノルマをこなすことを最優先事項とするから、他の組織や労働者への興味は失っていく。自分さえよければ他者はどうなってもいいという感覚が広がっていく。
だから誰の仕事も尊敬することはないし、また誰からも尊敬されることのない環境で働き続ける。

何ら尊敬することもできない労働に従事しなければならない労働者が、労働や労働者に対する敬意をお互いに失っていく。
かけがえのない仕事や、余人を持って代えがたい労働者などは存在せず、ノルマを消化する日々を受け入れ、淡々と仕事をこなすなかで、稼ぎや趣味に価値を見いだしたり、組織内での地位を社会的な地位とみなしたり、国家権力を自分の力とみなすことで、働く意義を作り出し始めたのではないだろうか。

これはなにも国家公務員に特有のことではなく、ありとあらゆる労働に存在していることだろうと思う。

そして、社会的に意義のある何事かをなし遂げるという労働本来の目的が消え、労働は、しだいに稼ぎや優越感を得るための手段へと堕落していく。

そういう中で、大きな権威ある組織のトップというのは、私的な利益をもたらすための手段としては、最高の道具であり、それを利用する以外の選択肢はないのだろう。

誰にも迷惑が掛からないからといっても、恥ずかしいことは敬意を失うからやらないものだが、誰をも尊敬できず、また誰からも尊敬されなくなった労働者は、はじめから失う何ものをも持っていない。
この社会の中で、その立場を自分の利益へと誘導するのに歯止めがかからないのは、むしろ当然かもしれない。

1 thought on “敬意なき社会(後半)”

  1. 改めて読み返してみて、とても良い記事だなあと思いました。
    ただ、えらい人たち全員が必ずしも私的な利益誘導しか考えていないわけではなく、社会的に意義のあることをしようと使命感に近い感情を持っている人は多いです。
    にも関わらず、長年組織のノルマ主義に浸っていたせいで、気が付くと周りが見えなくなってしまい、闇雲に動き回っているだけのような気がします。

ahisus へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です