貨幣の地位

東京にいたとき、個人情報をパソコンで入力する仕事をしている人に、その仕事の話を聞いたことがある。

どんな仕事かと聞くと、光回線の申込書がオフィスに送られて来るので、その内容をパソコンに入力して、記入漏れがあれば、申込者に電話して確認するという仕事だという。

ショッピングモールなどに特設コーナーを設けて、客を呼び止めて、その場で申込書を書いてもらい、全国からそういうものが送られてくるので処理しているのだそうだ。

忙しさはまちまちで、あまり仕事のない日もあれば、なにかのキャンペーンの時は、大量の申込書に忙殺されるらしい。

本人は、自分の仕事に興味はないようで、仕事の話を早々に切り上げて、趣味のアメフト観戦の話に移っていった。

光回線が社会に必要なものであることは理解できるが、しかし、個人情報を入力するだけの仕事は、光回線事業者にとっては必要な仕事であっても、本当に社会にとって必要な仕事であるかどうか、実感がないため、仕事に興味を持てなかったのかもしれない。

そして、その人は、自分の仕事に興味を持てないまま毎日八時間も仕事をし、その対価として給料を受け取り、生活に必要なすべてのものを買って生活している。

そうしなければ生きていくことができない。

生活や趣味のためと割り切って、企業のための冷たい労働の中へ自ら積極的に参画していかなければならない虚無のような現実しかない。

ここまで極端ではないにしても、都市の生活とは、おおむねこういったものだと思う。

そういった土壌から、自然回帰の思想、貨幣を必要としない生活や自給自足的な生活へのあこがれが生まれてくるのではないかと思う。

しかし、結局それらは現代社会の仕事が、企業経営のための道具になってしまったことへの衝動的な反動であり、仕事とはどうあるべきかという視座を欠いているために、単なる貨幣の否定という安易な道をたどりがちな気がする。

地方移住において、しばしば自給自足が語られるが、現代社会では、自給自足は不可能であると思う。
畑や水田を借りて、自分が食べる米や野菜くらいは自給自足が可能かもしれないが、肉や魚は、貨幣によって交換することがほとんどである。着るものや住むところ、ライフラインや通信機器、教育サービス等は、ほぼすべて貨幣を用いた交換で手に入れるしかない。

とはいえ、貨幣の地位を下げることはできると思う。というよりも、交換のための単なる道具という本来の役割へ戻すことが大事なのではないかと思う。

現代社会の仕事の主役は、経済と、それに主導された企業という、肉体を持たない非人間的なシステムであり、労働者は、そのシステムのための奉仕者である。

しかし、地方の仕事の主役は、個人の生活と、技能である。
野菜や米を作り、食べきれない余剰分を現金に換える。木を伐って薪にしたり、誰かのために家具にしたりしてお金に換える。先祖代々の山を手入れしながら、タケノコや松茸をとり、食べきれない分を同じく現金に換える。

生活と労働が一体になっているため、生活にはほとんどお金がかからない。そして、得たお金で、新しい道具を買い、それまでできなかった新しい仕事へ挑戦していく。
仕事と生活が一体になっているからこそ、それはまた新しい生活の始まりでもある。

お金は人生のすべてではなく、必要なものと交換し、新しい仕事をするための一道具にすぎない。

そういったところまでお金の地位を下げていく。
それが今、地域に求められていることではないだろうか。

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