地方の仕事のあり方

都市での労働は、会社が中心になる。
一日のうちのほとんどを会社が必要とする仕事の労働力として会社の経営に参画し、その見返りとして報酬を得る。
そこから家賃や住宅ローンに使える額を算出し、会社までの通勤方法と時間を考慮して、住む家が決定される。

そのとき、家賃やローンを支払うためという大義名分が働く意味に加えられてくる。
そうやって手に入れた家は、生産活動を行う場所というよりは、仕事の疲れを癒やすための消費を行う場所である。とはいっても、バーベキューなどの行為は厳しく制限され、それらはあくまでも管理者が許す範囲内での、消費活動を行っていく拠点である。
そうであるからこそ、休日も、何者かが管理する場所とモノを使って商品化された娯楽を消費し、月曜から始まる会社のための労働に備えなければならない。

そういった会社と一蓮托生となったあり方が、社会不安や閉塞感を生み出しているとしたら、地方での労働は、そういったあり方とは一線を画すべきではないかと思う。
高付加価値の特産品を作り、それらしいストーリーとともに大消費地へ送り出すことが、地方創生であるかのように語られるとき、どうしてもそれに違和感を覚えてしまう。
大型機械と農薬で効率的に作られていき、まるで工業製品のように利益が計算されていく特産野菜が、都市労働者の一部の裕福な会社員に消費されていく。
あるいは、都市労働者の緊張を和らげることを目的に、自然のアクティビティを商品化して消費していく。
そこにはその土地に住む人たちの姿はなく、大規模に投下される資本と株式会社が主役の都市での労働と全く同じ価値観の延長でしかないように感じてしまう。

地方での労働は、家を中心として、自然の中で展開されるべきではないかと思う。
人間は一人では生きることはできない。都市では、会社という他者に依って生きるほかはないが、地方では、そうではなく自然という他者に依って生きることができる。
家の周りには海や山があり、食べ物だけでなく水や燃料を提供してくれる。数千年かけて維持してきた田畑もある。
漁師だった祖父の家は、自然の中でうまく働けるように実に様々な工夫がされていた。
自然をうまく利用しながら、無理なく生活していけるのが地方であってほしいと思う。

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