質から量へ

先日、琴南の県有林へ間伐しに行ったとき、県職員と作業ボランティアの間で、ちょっとした意見の対立があった。

県有林は平成元年にヒノキを5.4haほど植林したヒノキ林だけれども、広葉樹もところどころ混じっていて、その広葉樹がヒノキの生育に影響が出ている箇所をどうするかが問題になった。
Continue reading “質から量へ”

鳥獣供養

11月14日 曇りのち雨

11月15日から狩猟解禁日ということもあり、まんのう町で鳥獣供養が行われました。
住職が来られ、お経をあげてお焼香をするなど、葬儀の要領で進行しました。

鳥獣供養の意味合いを尋ねたところ、近頃は、イノシシの農作物の獣害がひどく、肉を食べるために獲ることもあるが、多くの場合は数を減らすためだけに殺すので、たたりを警戒して、あらかじめ供養をしておくとのことでした。
Continue reading “鳥獣供養”

旧石器時代と車社会

香川県には国分台遺跡という旧石器時代の遺跡がある。
この遺跡が、県内で最古の遺跡であり、約二万年前から長い間、そこに人が住み続けたらしい。
彼らが使っていた石器は、翼状剥片という特殊な形状をしたもので、中国地方で開発された後期旧石器時代の先端技術でもある瀬戸内技法によって作られた高度な石器だった。
Continue reading “旧石器時代と車社会”

圧迫する理性

キリスト教的人間観では、身体を含めた他の何よりも人間の精神や理性が優先される。

パスカルは、『人間は考える葦である』と表現し、デカルトもまた、自我という理性を存在の前提として措くことにした。前回述べたように、人間の理性とは、唯一の実体である『神』を捉えるための高尚な主体である。『神』という単一の存在から、どのようにして複雑な世界が作られたのかを探る試みがキリスト教の最高の理論であった。それは自然科学が発達した現代においても、『神』は『素粒子』に姿を変えただけで、どのようにしてその単一で素な実体から世界が構成されるのかという問い自体は、そのままの様式で残り続けている。
Continue reading “圧迫する理性”