キリスト教的人間観では、身体を含めた他の何よりも人間の精神や理性が優先される。
パスカルは、『人間は考える葦である』と表現し、デカルトもまた、自我という理性を存在の前提として措くことにした。前回述べたように、人間の理性とは、唯一の実体である『神』を捉えるための高尚な主体である。『神』という単一の存在から、どのようにして複雑な世界が作られたのかを探る試みがキリスト教の最高の理論であった。それは自然科学が発達した現代においても、『神』は『素粒子』に姿を変えただけで、どのようにしてその単一で素な実体から世界が構成されるのかという問い自体は、そのままの様式で残り続けている。
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