東京での勤め人の経験から学んだことの一つは、仕事の内容よりも、働きかたの方が重要なのではないかということだ。
高齢者をだまして高額の買い物をさせる悪徳業は論外としても、ある人の仕事に対して、対価を払ってもいいと考える人がいる以上、その仕事は誰かにとって必要とされている訳で、そうすると仕事というのは、それ自体に『社会貢献』や、『やりがい』といった意味が内包されていると考えるべきだろう。
もっとも、人の生き死にを左右する医師のような場合には、患者本人にとっては何物にも代え難い切実な必要性があるが、健康な人にとってはほとんど必要性がなかったりもするので、その仕事の重要性には大小はあるけれども、総じて、どんな仕事であろうとも、それは社会にとって必要とされていると信じたい。
しかし、そうであるはずなのに、多くの人々が自分自身の仕事に情熱をもてず、働く場としての企業や組織の不満と批判を漏らすときか、あるいは、週末の過ごし方や趣味を語るときにだけ饒舌になるのは一体なぜだろうか。
仕事の話は、組織内の事情通であることをひけらかすだけの話題に成り下がってしまった。
それは結局のところ、仕事の内容よりも、働きかたの側に、問題があったのではないだろうか。
大企業の働きかたというのは、おおむね次のようなものだ。
組織のブレーン(この人たちは、まず現場にはいないし、見にもこない)が、中長期目標を立て(この目標の根拠は最後まで説明されない)、それを実行するために、年単位、月単位、あるいは週単位で目標が設定される。
労働者はチーム単位に割り振られ、個人として日々のスケジュールを消化していく。
そこでの労働は、なにもかもがマニュアル化され、マニュアルにある範囲内の裁量しかなく、しかもそのマニュアルも、数ヶ月おきにコロコロと変わっていくのが普通である。
ときには改悪され、また元に戻ることもあるが、それに対して上層部が責任をとることはない。
労働者の側も、マニュアルに沿ってさえいれば、どんな結果になろうと責任をとる必要はない。
自分自身の仕事であるはずなのに、その働きかたは企業の側が決定し、業務だけがただ淡々と遂行されていく。
軍人が、戦闘行為について是非を問えない体制の中で、泥にまみれながら戦争を遂行しなければならないのと同じように、誰もが自分自身の仕事の是非を問えない中で、スマートに淡々と業務を遂行していく。
大きな企業が、それに見合う大きな目標を達成するために、そこで働く多数の労働者たちをマニュアルで一元的にコントロールし、生産システムに組み込むことで、利益を上げているのは誰もが感じていることだ。
そして、自分の労働はシステムの一部でしかなく、その成果もすべて金銭に換算されるだけの虚無感が正しいことではないと、誰もが思っているからこそ、『自己実現』とか『社会貢献』、『充実感』や『やりがい』というオブラートのような言葉が必要になってくる。そうでなければ、そこにあるのは、冷徹な生産システムと、システムの前に一人で立たされる裸の個人という現実だけだからだ。
それでも、『自己実現』や『やりがい』を感じられるのならまだましな方で、ほとんどの場合は、仕事は仕事と割り切り、趣味に没頭していく労働者を見るだけである。
いや、考えようによっては、『自己実現』による社会的な地位の向上や、社会貢献による『やりがい』も、隣に誰が住んでいるかもわからないような壊れた社会の出来事でしかないとすると、救いはどこにもないのかもしれない。
多くの人がこんな現状を前にして閉塞感をいだき、いまだなお推奨される拡大成長路線に辟易しているにもかかわらず、それらを止めることができないのはなぜなのだろうか。
その理由は、結局、労働が個人の人生を失敗なく過ごすための手段でしかなくなったからだろう。
たとえ労働を含めた人生を企業に管理されようとも、その強力な管理によって予見性のある安定的な人生(つまりそれは賢い生き方であり、成功した人生でもある。)を送れるのなら、結局はそれが自分にとって一番良い生き方だという信仰があるからだ。
安らかな老後を送れるのなら、むしろ、積極的に総てを管理された方が、良いとすら思えてくる。
生産システムの前に立たされる個人にとっては、その仕事を必要としている企業も、その成果物を必要としている顧客も、社会も関係ない。ただ個人の人生設計を狂わせないために働くだけである。それ以外に生きる手段はない。そして、それをごまかすために『自己実現』や『社会貢献』という言葉も用意されている。生きていくだけなら、それ以外には何も必要ない。
デンマークの哲学者キルケゴールは、真のキリスト者とは、正しき信仰を持ち、神との間に単独で契約を結ぶことで完成されると説いた。そこには、ありとあらゆるものとの関係を取り去ったとしても、神との関係さえ残るなら人間は正しく生きてゆけるというメッセージが込められている。
現代の労働者の生活は、企業との雇用関係を軸に展開されていくしかない。逆に言えば、他の何者との関係を失ったとしても、企業との雇用関係さえ残れば、どんなに屈辱的な思いをしようが生きてゆけるのである。それはあたかも人間の存在を神との契約に純化させていったキリスト教のように、現代社会というのは人間の存在を企業との雇用契約へとシンプルかつスマートに純化させていくような気がするのである。