大川山(だいせんざん)トレッキング

10月22日 曇りときどき雨

標高1042mという香川県最高峰の大川山トレッキングに参加する機会をえた。実に5年ぶりの登山だった。

登山道は、鉄塔の保守用道と一致するため、いくつもの鉄塔の下を通ることになる。
登山道は、鉄塔の保守用道と一致するため、いくつもの鉄塔の下を通ることになる。

東京にいた頃、登山が趣味という方が、周りに何人もいたが、私は登山とは距離をとり続けた。
それは、趣味としての登山が、都市生活の不満を解消するために消費される娯楽にしか思えなかったからだ。

都市生活者は、たいてい①職場と住居が分離し、②経済成長優先の企業に属し、③給料ですべてを購入しなければならない生活を余儀なくされる。それは、自分の所属する企業の安定・発展に依存した運命共同体を形成することであり、その企業経営を最重要事項と位置付けて、主体的に参画していくことでもある(もっともこれは価値観の問題なので、考えようによっては、一部の人は、好きなだけお金を稼げて、好きなところに住め、なんでも購入できる“素敵な生活”でもある。)。本来、自分が所属する企業とは何ら必然性を有さないにもかかわらず、そうなってしまう。

労働はマニュアル化され、労働者は生産システムに組み込まれて、工場やオフィスのような人工的な環境の中でシステムの一部として働くことになる。時間管理は強化され、目標値を期限内に達成するため、労働は工程ごとに細分化され、個々の工程は単純化されていく。そのたびに新しいマニュアルの作成を要求され、完成したマニュアルに従わざるを得ないシステムが出来上がっていく。
このようにして労働はますますつまらないものになっていくにも関わらず、主体的に取り組まなければならないところに都市の憂鬱がある。

知的労働と思われる職場においても、そのような細分化と単純化が進行し、労働=システムとの同化といった閉塞を生み出していた。いや、むしろそういった知的労働者たちであったからこそ、合理的に、非情なまでに人間をシステムに組み込む手法に長けていたのかもしれない。

鉄塔の基礎部分。コンクリート製の杭かフーチングかに鋼管が埋め込まれて、支柱とフランジで接続されている。
鉄塔の基礎部分。コンクリート製の杭かフーチングかに鋼管が埋め込まれて、支柱とフランジで接続されている。

そして労働者たちは、日に日に意義を見出せなくなっていく労働の代わりに、休暇の趣味にお金と時間と労力とをつぎ込んでいく。趣味のために労働をするという倒錯した考え方が、システムの一部になることへの抵抗を和らげる一種のガス抜きとして機能し、それがために、労働の管理強化に対する根本的な解決は放置される。

登山はそういったガス抜きのための格好の商品であるように思えてならなかった。
機能的な服と靴に身を包み、自然の中を、自分の体だけを頼りにして登っていく。便利な都市を離れ、調理道具や食料を携帯して、時には何週間も自分の知恵やワザを頼みにして数々の不便さを乗り切っていく。登山用品店には、コンパクトで機能的な商品が並べられている。それらの商品には、機能だけではなく、これからの豊かで快適な登山ライフというイデオロギーが含まれている。それらのイデオロギーを手に入れたとき、その道具とともに広がっていくだろう自らの登山体験に心弾ませる登山者は多いだろう。

登山には自らの肉体と知恵、ワザを駆使して自然の中で生活するという様式が備わっている。それは何もかもがすでに用意されて、とりあえず購入すれば便利に生活できる都市生活とは異なる様式である。
だからこそ、都市生活者は登山を求めるのではないだろうか。

所属する企業の経営を支えるためにスケジュールをたんたんと消化していき、あたかも日めくりカレンダーのように何も蓄積されず、ただ捨て去られていくだけの日々。
そういった日々に抵抗するために、せめて趣味の中では、何か蓄積されるものを見いだそうとする試みが登山ではないだろうか。
鍛えられる足腰や、天候や植物の知識、自然の中で生活する知恵、同行者との人間関係など、登山を通して様々なものが蓄積されていく。
しかし、だからこそ、登山の中に、組織のシステムに組み込まれた閉鎖的な都市生活に対する反動を見てしまう。
しかも、その登山は、労働ではない趣味であるから、結局のところ、山を踏破するところに主たる目的が据え置かれてしまう。
そういった登山のあり方に、都市生活のうっとうしさを感じてしまい、距離を置かざるを得なかった。

頂上にある大山神社
頂上にある大山神社

最後は急斜面でしたが、なんとか無事に歩けました。
久しぶりの登山だったせいか、案外楽しかったです!

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