以前、夏に某農機メーカーの工場を見学したとき、面白いことを教わった。
稲作農業は季節作業なので、春に田植えを行い、秋に刈り取りを行う。なので、農家は田植え前に田植機を買い、刈り取り前にコンバイン(収穫機)を購入する。
農機メーカーは、その需要に間に合うように、秋から冬にかけて田植機の製造を行い、春から夏にかけてコンバインの製造を集中的に行う。
面白いのは、一つの製造ラインで田植機とコンバインを組み立てていて、そのときはちょうど、秋の収穫に向けてコンバインの製造を行っていた。
組み立て途中のコンバインがいくつも並んで、順番にパーツが取り付けられるのだけれども、その中に一台だけ、季節外れの田植機が混ざっていた。
訊けば、田植機の注文が入っているわけではない。
それは、組み立て工員が、組み立ての手順を忘れないために、作っているのだそうだ。
農機は季節商品のため、一度売れてしまえば来年まで作らないことも可能だが、それでは、作業員が手順を忘れてしまって、製造ラインのスピードを落とさざるを得なくなってしまう。
そうならないために、二週間に一度くらいの頻度で、シーズンオフの機械を組み立てるらしい。
こういった最新の機械だけでなく、伊勢神宮のような伝統のあるところでも技術の伝承のため遷宮を20年ごとに行うという説もある。
農業機械にしろ、社殿にしろ、その技術自体は、文字や絵、写真などで知識として伝えていくことはたやすい。
そして、そういった知識や技術は文章にできるため、ある程度の具体性や客観性を備えることができ、研究の対象になってきた。
知識や技術は、“語り得る”のである。
しかし、本当に知識や技術を伝えていくためには、実際に身体活動を伴った動作、すなわち技能が必要になるのだ。
ここで言葉を整理すると、技術や知識は、言葉によって蓄積されて伝えられる普遍のものであり、野球で言うならフォークボールのときの球の握り方や、投げ方がそれにあたる。フォークボールの投げ方は、蓄積され固定化されているものだから、変化することはない一般的なものと言える。
一方、技能や知恵は、実際にそれを行う能力や工夫であり、フォークボールを投げられるかどうかは人によるから、これは言葉で伝えることのできないものだ。各人が自らの体を使って、その人ごとに反復練習して体得していくしかない。
上記した例のように、農機にしろ社殿にしろ製造マニュアルはいくらでもるが、それを知っていても、やってみなければ覚えないし残らない。
自転車の乗り方をどんなに説明されたところで、自転車に乗れるわけではないように、どんなに語り尽くしても最後は“語り得ぬ”領域に行き着く。
日本の職人がよく言う、「仕事は見て覚えろ」とか「仕事は盗んで覚えろ」というのは、いくら語ったところで、結局の所は、“語り得ぬ”ものが支配していると感じているからだろう。
そこでは属人的な“語り得ぬ”技能や知恵が、“語り得る”技術や知識よりも、優先されるのである。
それが、日本人の感覚なのではないだろうか。