現在の地方の農業のあり方にはいつも疑問を感じてしまう。
高齢化が進み、後継者がいないと言われるが、だいたいみな自分の子供には農業を継がせたくないと考えているような節がある。
高価な農業機械を購入しても、農作物の単価が安いから、機械代を払うために農地を大規模に集積せざるをえず、広大な土地を大きなトラクターに乗って一人で作業するというのはよく見かける光景だ。
経営を安定させるために、少ない人数で機械と農薬に頼り、資本投資に対して、いくらの収入があるかをシビアに計算し、それに従って農作業が組まれていく。
結局それは、一次産業か他の産業かの違いはあっても、経済合理性によって主導されていく都市の労働と同じタイプの労働のように思える。
むしろ、一次産業ゆえの労働条件のきつさがある分だけ、魅力が低いのは当然かもしれない。
収入の低さが取り沙汰される農業ではあるが、それ以上に、こういったいわば野菜生産ラインに立たされた工員のような仕事のあり方に魅力を感じられないからこそ、後継者はいないし、子供に継がせたくないと考えているのかもしれない。
ブランド農作物などの高付加価値商品を作る試みも、結局のところは商品としての魅力を高めることで、メディアでの宣伝をしやすくし、他の工業製品と同じように経済の主導する販路に乗せていくところに収束していく。
そういった都市の論理に則ってお金を生み出す取り組みは、分かりやすく、行政もバックアップしやすい。
しかし、そういった既存の成功事例のみを地域おこしや町おこしとして考えていいものだろうかと思ってしまう。
もちろん、都市の労働やお金というのは、とても大事なものである。自動車や医薬品、はたまた弾道ミサイル防衛システムのような生活や命、安全を守るものは、それらが真に必要かどうかはさておき、都市や大企業や資本なしには、到底実現できそうもない。
だから、批判されるべきは、都市労働や、経済主導の経営方針のみではなく、それ以外に価値を認められない社会、あるいはそれ以外の価値を評価できない社会のあり方の側だろう。
現在の社会は、仕事と生活を行う場所がバラバラになり、経済主導の経営方針に従って、他人が用意した作業を繰り返す。老後の安心を目的として、その労働を積極的に受け入れ、自分の人生そのものを会社を繁栄させるための手段と化していく。
そして、その労働で得られる収入の多寡が、労働や人生の価値となる。
そうだとするなら、地方に求められることというのは、上記したような目的と手段を真逆にすれば良いだけで、案外簡単なものなのかもしれない。
つまり、高収入を得られる仕事を手段として、老後の安心を目的とする社会だけではなく、仕事そのものを目的とする地方という社会を作ればよいのではないだろうか。
仕事そのものを目的とする社会については、また別の機会に考えていきたい。