「人に歴史あり」というように、人間とは時間的な生き物だということができる。人間が成長していくには時間がかかるし、その課程で蓄積される記憶が、人を作っていく。
ところで、以前、就職活動や、前職のときに、様々な機械メーカーの生産工場を見学する機会に恵まれた。
機械メーカーの生産工場というと、鉄を扱うから、溶接の火花や熱、油のにおいやシミといったものを想像しがちで、実際にそういうところも一つか二つはあったのだけれど、それ以外のほとんどが、汚さとは無縁のクリーンな工場だった。
それもそのはず、それらは生産工場というよりは、できあがった部品をボルトで連結していくだけの組立工場ばかりだったからだ。
何社もの下請け会社が、一台の機械を分担して製造し、コンポーネントだとかアセンブリと呼ばれる、ひとかたまりの部品として親会社に納入する。
親会社である完成品メーカーでは、それらを台座に乗せ、ベルトコンベア式の組み立てラインで、工員が組み立てていくだけだ。
工員は、自分の工程まで流れてきた機械に、それぞれエンジンだとか、運転席だとかを取り付けていく。一台取り付ければ、すぐに次のが来るから、また同じように取り付けていく。そうして同じ作業を繰り返すことで、自分の工程に習熟していく。
このベルトコンベアの流れる速さは、もちろん企業が決める。普段より多く作りたいときは、普段より早く動かすだけでいい。優秀な経営者なら、工員の疲れが明日の作業に影響し始めるギリギリの速度までコンベアの速度を上げるのが、最も効率的であると判断するだろう。
ベルトコンベアの流れる時間を握ることで、工員の働き方と生産量を制御できるように、システムは設計されている。
そして、工場の見学通路は、だいたい工員の頭上よりもかなり高いところに設置されている。
安全や作業の邪魔にならないところを考えれば、頭上に設置するのが一番いいのかもしれないが、将来ホワイトカラーになる優秀な学生や、他社のホワイトカラーたちが、ブルーカラーを見下ろしながら歩くという社会的な構図を、工場の構造に固定したかのようだ。
しかし、そのホワイトカラーたちも、果たして本当にブルーカラーと絶対的な差異があるのかと問われれば、それは怪しい。
ホワイトカラーたちも生産システムが求める成果を出すために、時に自分で仕事をこなし、時に部下に配分し、部下の仕上げたコンポーネント同士を連結して、期限までに仕上げていく。その仕事の速さを決めるのは、生産システムの側であり、仕事の期限が、四半期末であれ月末であれ、10分ごとに期限が訪れる工員と比べて、その期限の猶予に差はあれど、自分の時間をシステムに支配されて生きるという点に差はないように思える。
冒頭で述べたように、人間が時間的な生き物であり、その存在の内側に時間が蓄積されていくのであれば、今まさに蓄積されているその時間とは、生産システムという他者に支配された時間である。
それに気がついたとき、社会人は、おおむね次のような抵抗を始める。
仕事は仕事と割り切って淡々と遂行し、100%の完成度で期限を過ぎてしまうよりも、70%の完成度で仕事を期限内に早く終わらせるという、実にささやかな抵抗だ。
社会人になれば、そのようなことを何人もの人から言われ、そのたびに、自分の仕事の誇りや情熱、魅力を少しずつ失っていった。
自分が疲れないようにするため、手を抜きながらこなしていかなければならない労働に、果たしてどのような価値を見いだせばいいのだろうか。
そして、そのような労働によって成り立っている自分の生活や人生を、どう捉えればいいのか。
あるいは、自分の労働を守るために、システムが決める期限に直接的に反抗し、組織内の『頑固者』や『変人』となって生きる人もいるかもしれないが、そこまでの度胸がある人は少ない。
そして、それらをすべて拒否するとなると、唯一残された選択肢は、辞職しかない。
良い大学に入り、良い会社に入り、安泰な老後を送るという『賢い人生』のレールを通って蓄積されるものが、生産システムの支配する誇りも情熱もない労働時間、そしてそれが自分の人生そのものに置換されていく現実であるとすれば、すでに、そのレールは基礎部分が崩壊しているのかもしれない。
そして、その時にいたって始めて、ぼくがこれまで省みなかった故郷で、学歴社会では決して評価されることのないであろう零細漁業を死ぬまで続けた祖父の生き方にこそ、失ってしまった大切なものがあったのではないかと思うようになった。
そこには、祖父と瀬戸内海が共に作っていく労働があったように思えるのである。