祖父の家

祖父の家は、漁師の家だった。家系という意味でも漁師の家だが、家という建築を含めた生活場所そのものが、『漁師』という性格を帯びていた。

家の正面にはすぐ海があり、裏手は山になっていて、山と海との間にできた狭い土地に、数軒の漁師の家が連なっていた。典型的な日本の漁村風景であるが、漁村は海風から家を守るために、山を背にして密集するものらしい。

物心付いたときには、ぼくはこの漁師の家に住んでいて、祖父の網仕事をいつも見ていた。漁に連れていってもらった記憶はないのだけれど、祖父が庭でカッチ色と呼ばれる茶色い網を広げて手入れをしたり、居間の一角にあった縁側を拡張したような作業場で網の補修をしていたのを覚えている。

漁師の家の庭は、ただ広いだけの殺風景な原っぱである。網を広げるのに邪魔になるようなものは、一つもない。家の出入り口はいくつもあり、網仕事をするスペースは家の中にあるけれども、縁側のような場所なので外から直接出入りできた。
トイレと風呂は家の外にあったから、たとえ作業着が魚や藻で汚れたり海水で濡れていても、家の中を汚す心配はなかった。

食卓にはいつも祖父が穫った瀬戸内の魚、たとえば、アジ、メバル、コチ、ベラ、ガシラなどが並んだ。自家消費分以外は売って現金に換え、生活に必要な物を買った。
そこには、労働と一体となった生活が営まれていた。労働の成果の一部が、直接的に食べるものになり、庭を含めた家そのものが漁をするための場だった。人間の生活と労働、そして働く場としての自然が、すべて不可分のものとして、分かち難く存在する風景が、ぼくの原風景だ。

しかし、祖父が漁を辞めてからは、皮肉なことに、その風景は、ちょっとした煩わしいものとして現れることになった。

網を広げるために便利であった庭は、延々と雑草を刈らなくてはならない不便な場所となり、出入りのしやすかった家は、冷暖房効率の劣る古い住宅となり、利用しやすかった家の外の風呂とトイレは、利用する度に外に出なくてはならない不便きわまるものとなっていた。

祖父の引退とともに、家に内包された『漁』の役割は終わってしまったにも関わらず、家の構造に残された『漁』の部分はそのままの形で残り続けた。
家の構造はそのままなのに、家と住む人との関係が変わった途端に、漁師のための便利だった家は、年金暮らしの高齢者が生活するのには不便な家になってしまった。

晩年はその家も部分的にリフォームされ、トイレや風呂は外に出なくても済むようになった。漁師の家は、ようやく構造的にも、その役割を終えたのである。

それから20年くらい経ち、ぼくは東京に五年間住んだ。その間に引っ越しもした。住んでいた住宅の庭はコンクリートで舗装され、草刈りに煩わされることはなかったし、すきま風もなく、もちろんトイレや風呂も部屋の中についていて、少し狭いという点をのぞけば、とても生活しやすいところだった。

しかし、祖父の家と比べると、そこに個性はなく、労働と生活がバラバラになって、巨大な社会システムが提供する画一的な『便利』さを押しつけられるだけの住宅でもあったように思う。

(上段の写真は、祖父の家ではなくイメージ画像です。18世紀の徳島の漁師の家で、床の一部が竹でできていて、水を切れるようになっている。)

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