自然と人間の関係

まんのう町の地域おこし協力隊として働き始めて、ちょうど4か月が過ぎた。

まんのう町の人たちに共通する思いは、まんのう町を活性化することだが、その方法については、大きく分けて二つの意見があるように思う。

一つは、大企業などを誘致することによって雇用を促進して活性化する方法と、もう一つは、豊富な地域資源を利用して活性化する方法だ。

以前に述べたように、前者は貨幣の“量”を問題とし、後者は自然の“質”を問題としているため、折衷案はなく、両者はどこかで衝突するまで同時進行を続けるだろう。
前者は、香川県でも三番目に面積が大きいところに目を付け、まんのう町の山や田んぼを工場用地に造成して、工業地帯やメガソーラーを新設することで、新たな雇用や収入を増やそうという発想である。
もちろんこの発想は、自然が持つ多面的な価値よりも、経済的な価値を評価することで実現できることである。

山を切り拓いてメガソーラーや工場にすれば、その山の生態系は確実に変化し、どこか落ち着くべきところで落ち着くが、その遷移した状態が、それ以前の状態よりも好ましい状態なのか、それとも好ましくない状態なのかを、客観的に判断することは極めて難しい。
というのも、良い悪いの価値判断は、現代社会の権威である科学の範疇には収まらない問題であるため、どちらが科学的に正しいかを決定することはできず、結局は個人の感情や価値判断の問題になるからである。

ぼくの故郷である町の海岸にも、世界的に有名な大企業の製品試験場ができた。その試験場は、それまであった海岸線の形を大きく変え、それに伴い潮の流れも変わったため、その試験場に砂が堆積するようになった。その砂は、トラックに載せられ、どこかに運ばれていく。おそらくはコンクリートやモルタルの材料にでもなるのだろう。その砂は企業にとっては、思わぬ副産物なのかもしれないし、お金を払って引き取ってもらう厄介者なのかもしれないが、それによって付近の海岸の砂は流亡しつづけ、砂浜は大きく後退してしまった。

そのことで、そこを生息圏としていた小さな生き物がどうなったかはわからないし、大きく後退したといえ僅かな砂浜は残っているので海水浴はできる。実害としては、よくわからないのだ。ただ、一私企業によって、自分たちの生活していた風景が望ましくない方へ変えられてしまったという感情だけが残った。

そして、そうまでして誘致した工場での労働が、これからの時代を担う若者にとって魅力的かどうかは、疑問が残る。平日の日中は、製品組み立てなどのマニュアル化された単純労働を繰り返し、企業から与えられる給料でのみ生活をしていかなければならないため、企業の安定した存続を人生の一番の目的にさせられてしまう。そのため、賃金カットや解雇などの“合理化”や管理をどこまでも受け入れていかなければならない気にさせられてしまう。
だからこそ、それに反比例するかのように、内向き外向きを問わず、休日の趣味的消費活動に労働の意義を見出し始める。週末の趣味にものすごい労力と金銭をつぎ込む人は、少なくない。

といってもそういった労働が、季節や天候に左右されない安定で平準化した雇用を創出する一方で、農業などの地域資源を利用した活性化は、天候などに左右され、その内容も季節ごとに大きく異なり、月ごとの収入なども安定はしない。しかし、安定しないからこそ、いろいろな工夫の余地があり、まんのう町の人たちはそれをなかば楽しみながら、仕事か遊びかわからないような活動を生み出している。

たとえば、香川県はため池がいたる所にあり、夏場は農業用水として利用されるが、フナやコイなどのため池漁業が営まれている池もある。
そういったため池も夏は農業用水の供給源として利用される一方で、淡水魚の養殖がおこなわれる。そして、稲の刈取りが終わった後は、池の水を抜き、底に溜まった水たまりにひしめくコイやフナを、親子連れが手づかみで捕まえる。捕まえた魚は、流水池に放し、泥を抜けばおいしく食べられる。

暴れる魚で泥だらけになりながら、水系が山や田んぼに流れ込み、一つのサイクルの中でいろんな命をはぐくんでいることを直接的に感じ取っていく。
こういうところで得る感覚は、工場の作業や事務作業で給料を与えられ、スーパーで魚の切り身を買って食べる生活とは、まったく異なる質を有しているように思う。

現代社会は、貨幣量を増大するために、すべてがバラバラに断片化してしまったように思える。
自然と人間とを分断し、職場と住居は互いに遠く、助け合うことない個人が住む都会に、自然の持つ価値を経済価値のみに絞り込み、改造され続ける里山。
それらの根底にあるのは、対象の持つ特定の関係のみを切り出すことで、物事を単純化し、いかにして利益に換えるかという思想である。
しかし、実際に里山に暮し、その自然を利用しながら生きる人たちとかかわると、人間というのは、自然やその他の生き物とが作り出す環境と、相互作用しながら生きているのだと実感できる。

今後は、そういった様々な命が相互作用して生きている世界の関係を、総体的にとらえる学問が必要なのではなないだろうか。

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