個人の本質

「○○の本質が分かっていない」とか、「○○の本質は、何か?」といったことを見聞きするが、物事のすべてに不変かつ普遍の“本質”が存在するということがあり得るのだろうかと疑ってしまう。

そもそも“本質”という用語自体が、(多分)明治以降に作られた日本語であり、創造神が存在することを前提とした西洋のローカルな思想に基づいて考え出された概念である。
すでに何度か述べたとおり、西洋の思考の根底には、神あるいはイデアという“本質”あるいは“実体”が存在し、人間の精神や世界は、その神あるいはイデアなる“本質”に導かれるようにして、正しき姿をとるという認識がある。
キリスト者にとって、世界の本質は神であるが、非キリスト者にとっては、神が本質ということにはならないし、そもそも“本質”なるものが存在するかどうかの同意すら、取り付けられていない。

現在では神はさまざまな姿に形を変え、たとえば物理学では素粒子なるものが、世界を構成する“本質”であると語られるのが普通である。
しかし、この素粒子は、人間の認識力では直接的に観測することはできず、加速器で粒子同士を衝突させ、その衝突のエネルギーによって新たに生まれる粒子を観測することで、間接的に存在を確かめることができる程度のものである。
物理学という枠組みの中では、素粒子なる“本質”があぶり出されるのだろうが、ひとたびその枠組みを離れてしまうと、直接的には観測できず、数式によって表現するしかないものが、“本質”として存在するのかどうか、信じる根拠は少ないのではないか。

つまり、人が物事の本質について語るとき、そこで俎上に上げられる“本質”とは、その語り手が信じる枠組みの中での“本質”にすぎず、その“本質”が存在するという考え方さえも、西洋のローカルな思考の枠組みを出るものではないと思われる。

また、人間は一人で成長するものではなく、他者を認識することで、他者とは異なる自我を形成していく。
キリスト者は、正しき信仰を持つことで神という最高の他者に導かれて、個人の人格を形成していく。
“個人”という用語も(多分)明治以降に作られた日本語であり、その“本質”は、正しき信仰を持ち、『神と契約を結んだ自由な一個の精神』である。
そして、神は世界を創造した唯一の“本質”であるから、世界の創造には何らかの道筋や、因果律が存在すると考えたのが西洋であり、その結果、自然科学が生まれた。

一方、日本では、個人の人格形成を、仕事に求めた。肉体よりも精神に重きを置く西洋のような思索や思想ではなく、自らの仕事をし遂げる行為の中に、連綿と続けられる手仕事の中に、人格形成を見た。
たとえば刀鍛冶は、刀の鍛錬の一振り一振りに全身全霊をかけた。それは、たとえ一人で行うような孤独な作業であったとしても、日々深まっていく知恵や技があり、それをし遂げる行為の中で、自分という人間を知っていった。
仕事は美徳であり、仕事に打ち込むことが生きることと同義であった。
西洋的な考え方である“本質”を、あえて、かつての日本に当てはめるのなら、仕事という行為自体の中に、個人の本質があったのではないかと思う。
現代社会の中に、生活費を稼ぐこと以上の意味を持った仕事、言い換えるなら本当に打ち込める仕事を、見つけられるのだろうか。

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